リビングから遠ざかる人々

数あるエンターテイメント作品、例えば本や映画にドラマ、そして音楽などを家庭において娯しむ場合、家族や親しい友人間で貸し借りすることは当たり前だった。媒体として、本は紙であり、映画やドラマは1970年代から2000年初頭にかけてはVHSテープ、音楽はCDで、その前はカセットテープだ。それらを購入したりレンタルし、貸し借りするのだ。

1985年に生まれた私の時代には、各家庭にTVは普及し、VHSテープを再生及び録画する機器も多く普及していた。TVはリビングに設置することが現在も多い。であるから、レンタルした作品を一緒に觀ることが多かった。

そしてそれらの作品についての感想を話す。評価する。そして、共有する。

近年は個人の所持するPCやスマホで個別にサブスクリプション契約し、インターネットで共有されることが多くなった。また、任意なタイミングで、エンターテイメントをデータで娯しむことが出来るという便利な世の中になった。

リビングにて、皆が決まった時間に放送される同じ地上波の番組を觀るということは少なくなり、各部屋で任意の時間に読みたい・観たい作品を視聴する。確かに便利だ。チャンネルの奪い合いなんてなくなった訳だ。

便利になった。悪くない。間違いなく良い時代になっていっている。便利にするために、色々なことを考えることも人の仕事だろう。

しかし、リビングから少しずつ人は減っていっていないだろうか。

チャンネルの奪い合い。言い換えれば、エンターテイメントの奪い合いだ。そのチャンネルの作品に価値があるからそうなるのであって、そして、それは人とのやりとりだ。それがなくなった。

エンターテイメントというのは共有されなければ、本人の記憶として残るだけで、それはそれで良いのだけれども、しかしそれだけでは人との関係は生まれない。逆に云えば、人との関係を生み出してくれるものがエンターテイメントの側面じゃないだろうか?

パブリック・ビューイングが何のためにあるのか。再考してみてはどうだろう。

単なるひとつの提案にすぎない。

自分の好きなタイミングで好きなものを選択して娯しむ。娯しめる。そういうものすごく「便利」な時代になったものだから「これ、面白いから観てみると良いよ」「読んでみると良いよ」と勧め難い。あまりしつこく勧めると何らかのハラスメントに該当してしまいそうだから、何も勧めず語らず、黙っているほうが利口?

いや……それだと人が何を考えているか推し量る能力は衰えていくことだろう。コミュ力は低下の一途で共感力が、無くなるだろう。

孤独を知ることになる……かな。

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