永遠に体育はきらい

ブロックが敷き詰められた地面に、1か所だけ光が当たっている。

 体育、という単語を投げると、二大派閥ができるんじゃないかと思っている。体育が好きか、嫌いかだ。記憶が小学生の頃にギュルギュルと巻き戻り、校庭に引かれた白線のかすれ具合やソフトボールのやわらかな弾力、ざらついた鉄棒などが触れるほど近くによみがえる。体育座りから立ち上がると尻に砂がついていて、みんな一斉にはたいて落としていた、あの音。問題はそれが好きか嫌いかだ。私は明確に嫌いだった。

 正確に言うと、別に全部が嫌いだったわけじゃない。そのすべてを上回る「マラソン嫌だったなあ」の負の感情が圧倒的すぎて、体育全般が被害を被っているのだ。こういうのを偏見と呼ぶ。でも、マラソン嫌だったなあ。長距離走が本当に嫌だった。脇腹を痛くして、喉を焼け付かせて、こんなこと自分に言いたくないけれど顎を上げ切ってぜえはあ走る自分は惨めだったに違いないと思っている。たぶん早歩きの方がよっぽど速いスピードが出ていた。

 そんな私だが、なんと今定期的に走っている。信じられない。青信号に間に合おうとしてダッシュしたら前のめりにズッコケた(大人になってから)ことがある私が。ジムに通っていると楽しそうに笑うひとを、未知のものを見る目でおののき見ていた私が。体育のマラソンの授業をこんなに恨んでいる私が! せっかく義務から解き放たれたというのにわざわざ運動するひとを、物好きにすぎると本気で思っていた。自分がどうなるかなんて本当にわからない。今は言える。運動は楽しい。

 そもそもで私が「運動してもいいかなあ」となるに至ったきっかけは2020年に遡る。新型コロナウイルスが流行し始めた年のこと、緊急事態宣言が発出されて、非正規の仕事がいわゆる自宅待機になったためだ。のちにちゃんと勤め先は補償をしてくれたが、そのことが未確定な期間が長くて、全く働いていないまま収入が途絶えている、という状況はちょっと私を追い詰めた。ダブルワークをするのがデフォルトなのだけど、サブの仕事が決まった途端のことで、そっちの職場には一度も勤務がないままに雇止めをされていたのも、結構私を追い詰めた。問い合わせをしても「調整中です」、相談機関に相談しても、勤務がなければ「どうにもならない」。起きて栄養を取って寝るだけをひたすら繰り返す、そういう生き物になった気がして、そんな自分がすごく駄目になった気がして、そういう状態を駄目だと思ってしまう自分に自己嫌悪していた。日ごとにちょっとずつ小さくなっていく四角い箱の中で暮らしている気分だった。ちなみにこのときに始めたものにお菓子作りがある。何か生みだしたかったんだねきっと。

 そしてその期間に足ムズムズ症候群になってしまったのですね。ふ、ふざけた名前……と呆れたくなるけれど、笑えない。眠れなくなってしまって大変に困った。そういえば耳鳴りもしていて耳栓を買ったな。もしかしてかなり追い詰められていたんだろうか。あれ? まあとにかく、たとえ貯蓄があったとしても、収入の先行きが見えない状態は、もちろん人にもよるだろうけれど健康に良くないってことがこの経験でわかったこと。最近村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を再読していたんだけど、読んでいてこっちがはらはらしていた。よくこいつはぐっすり眠れるな。それでいいんだけどさ。

 足ムズムズ症候群を解消すべく、の前からかなり毎日目的もなく歩いていたので(なにせ自宅待機なので)、これ以上どうしたら、と考えた結果、歩いて駄目なら走るか、となったのだ。あの頃はたくさんの人が走っていましたね。私もその中の一人でした。立ち仕事をしているので、その分の運動量がなくなっている事実も少し不安だった。

 しかしよみがえるマラソンの記憶。つらい。くるしい。でも今の私には強い味方がいる。インターネットだ。なんかいいジョギングの仕方ってあるはず。検索すると、「初心者は無理をするな」「歩くのと同じくらいのスピードでもよし」「走っているときにフォームが崩れるんだったらペースを落とせ」。

 え、それいいの? まあびっくりだった。そんなんでいいの? 小学校のときそんなこと言われなかった。というか何も言われなかった。「○km走りましょう」それだけ。タイムがあって、順位があって。マラソン大会の前の練習は、ひたすら走るだけ。インターネットの知見に従い、最初は本当に、歩く代わりに跳ねてるだけでは? くらいのペースで走ってみた。歩いてるみたいなもんだが、これはれっきとしたジョギングだ。だってインターネットがそれでいいって言っている。

 そうしたら5kmほど「走れた」。走れたことに拍子抜けした。憑き物が落ちたようだ。なんだ、できるんじゃん。

 小学生の頃の私だけじゃなく、マラソン大会の前日に天気予報の傘マークを祈るすべてのひとたちに「ねえ見てよ、これでいいんだよ」と言いたい気分だった。救われるひとはそこそこいると思う。なんていうと大袈裟なようだけれど、少なくとも私にとって体育でマラソンを憎んだ経験はつまり挫折だ。あんな小さい頃から、苦しんでも頑張ってもできない、うまくやれない、ということを、突き刺すような痛みと共に教え込まなくたっていいだろう。

 その年は春から夏の間、どうやら心拍数が重要らしい、などとインターネットに教えてもらいながらマイペースなジョギングを続けていた。それも新しい仕事が決まり忙しくなると途絶えてしまった。無念である。精神状態は落ち着いたけど。

 途絶えていた運動が復活したきっかけは単純で、今年7月『駅の階段を使おうキャンペーン』に参加していたときに自分の筋肉の少なさを思い知ったからだった。わりと深い地下鉄の駅ではあったものの、「うわーきつい!」どころではない。そんなこと言っていられないくらいにきつくてきつくて、意地で昇りきった頃にはもはや呼吸をするので精いっぱい。誰も話しかけてくれるなという感じの酷い有様だった。平面を5km歩いても元気いっぱいなのに、階段を20mほど昇っただけで息も絶え絶えになるのはどうしてなのか。筋肉か。筋肉が足りないのか。心肺機能か。数年前には一応長距離を走れたのに……。

 とにかく私ももう若くはないので、筋肉は欲しい。そしてこれが重要なのだが、それは別にしてもこれからも美味しいものを気兼ねなく食べられる未来が欲しい。基礎代謝を上げるのだ。そうだ、運動しよう。また走ろう。食欲が私の活力となる。美味しいものは偉大だ。

 そこで、存在は知っていたけど気後れしていた地域のスポーツセンターに行くことを決意した。外を走ってもよかったのだけど、いかんせん今年の夏の暑さは異常だ。35℃を下回ったら一息付けちゃうのはやっぱり異様。結局9月いっぱいずっと暑いままでしたね。気候危機を思って暗くなってしまう。あんな焦げるような日差しの中で走るなんて、そりゃ朝4時にでも起きられたら別なんだろうけど、7時に起きたら早起き認定レベルの身には夢のような話だ。スポーツセンターHPで紹介されている設置されているらしい器具の名称に目を白黒させて(レッグプレス? ラットプルダウン??)、私なんかが行っていいのだろうか……と3日間ほど悩んだ挙句に門戸を叩いた。実際は受付の人に「あのお……」と声をかけただけであるが。500円で会員になると利用料金が安くなるらしい。元を取るためには6回行く必要がある。いいぞ、物事が続かない私も元を取ろうとしているうちに習慣になるに違いない。なってくれ。頼む。

 おそるおそる訪れた地域のスポーツセンターはこじんまりとして、ネットで見た名前の器具がちゃんと置いてあって、それをひとつひとつ係の人が説明してくれた。受付をしたら放任だと思っていたので拍子抜けだったけれど、それがなかったら一週間ほど未知の器具を遠巻きに見ているだけで使えなかった気しかしないので本当によかった。そわそわ使ってみたら翌日ばっちり筋肉痛になったし。

 ランニングマシンとエアロバイクがあるので、筋トレのあとにどちらかを30分やることにしている。扇風機の風に吹かれながら、雨の心配もなく信号で止まることもなく運動できるのはなかなかよい。でもやっぱり外を走るのっていいな。風景が変わるし。ジョギングできる広い公園なんて近所にあったらいいのにな。犬が散歩してたりしてさ。ベンチがあって。近くにおいしいパン屋さんがあったりして……。妄想している間に30分のタイムアップ。ちなみに『駅の階段を使おうキャンペーン』の主催は私で、参加者も私一人だ。興味がある人はいつでも開催してください。

 最近は筋肉のためにタンパク質が必要ということを意識して、ヨーグルトを食べている。ドライフルーツの甘煮やジャムを入れて食べると大変おいしい。もぐもぐしながら家庭科の授業をぼんやりと思い返したりもする。あのときタンパク質の欄に書かれていた卵や肉、大豆などが「きんにくをつくる」と説明されてあるのは見たけれど、それだけじゃ心には響かないのだ。ちゃんと「走るだけでは筋肉は作られません」と教えてくれないと。筋トレなどの無酸素運動をした後に有酸素運動をするといいというのも体育の授業で教えてほしかった。でもまずは、長距離の走り方からかな。あなたのペースで走らなければ駄目なんだよと言わないといけない。体育の授業が楽しいって言えたルートもあったはずなのだ。

 今の子どもたちがそのルートを示されていればいい。

 ちなみにもう一月ほど運動を続けているけれど、特に数値に変化はないし、階段でもぜえはあ言っている。気負うとへこむ。気長に行こう。運動が楽しいと言えるのだから。

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