虫よけスプレーはまだ買ってない

青空に、白い雲が浮かんでいる写真。

 確か小学生のときだったと思う。理科の授業で顕微鏡を使った。理科室は暗幕が引かれ、いつもどこかひんやりとしていた気がする。4人程度の班に分かれて、一台の顕微鏡を使う。ずっしり重い本体、がくん、と回せる三つのレンズ、手術台みたいな土台、ピントを調整できそうなネジ、すぐに割れてしまいそうな薄いガラス。実験、という感じだ。使い方のレクチャーがあったあと、まず身近なものを覗いてみましょう、という先生の言葉に、私がいた班は髪の毛をチョイスした。もしかしたら先生から「髪の毛を見てみよう」という指示があったのかもしれない。とにかく髪の毛を見た。全員の髪の毛を並べて肉眼で見た時から勘づいてはいたけれど、顕微鏡で見てぎょっとした。みんなのに比べて、私の髪の毛はものすごく太かったのだ。ちょっと脅威を感じさせるくらいだった。平和な村にゴジラがやってきたくらいに見えた。

 きっと同じクラスに、同じくらい丈夫な髪の毛のひとはいただろうけれど、たった4人の中でひとり目立ったことで、私は自分の特異性を固定してしまった。でも別にそれでコンプレックスに陥ったとかいうことはなくて、幼心に「そりゃあポニーテールができないわけだ!」と納得してすっきりしたくらいだった。髪の毛が太い上に量が多いので、どんどん落ちてくるのだ。キリっと上でまとめたくもあったけど、重さで頭が痛くなった。私は小さい頃から20代後半までずうっと髪の毛が長かったのだけど、髪の毛が重苦しいことに悩んだりはしなかった。もっと短くすれば、もっと漉けば、明るく染めれば、という親切な「アドバイス」はたくさんもらったけれど、何も気にしなかった。みんな優しいんだな、でもちょっとほっといてほしい、くらいで流していた。たぶん鈍感だったのだと思う。そんな鈍感な私でも、並んだ4本の髪の毛の私のものだけが異様に太い、そのことが拡大され、共有され、観察されている、ということはとても恥ずかしかった。そして小さく怯えてもいた。

 毛が丈夫なのは髪だけにとどまらない。いわゆるムダ毛も、私はすごく目立つし太いし、すくすくと育つ。ちょっと笑ってしまうくらい元気だ。ここで世のみんなたちに聞いてみたいんだけど、脇や脚や腕の毛を「ムダ」なのだと意識したのって、いつからなんだろう? 私ははっきりしている。中学二年生の体育の授業だ。隣に座っていた女の子が他の子に向かって「○○ちゃんの足、すごいすべすべできれい。いいなあ」と感嘆したとき。私はそのときまで、『女性は脇や脚や腕の毛を処理せねばならない』という社会のルールを全然知らなかった。本当に全く知らなかった。隣の女の子が他の子の足の「ムダ毛のなさ」を褒めているとき、私の手足には元気に毛が生えていて、それは何もおかしくないことのはずなのに、その瞬間「隠れたい」と体育座りのままキュッと身を縮めたのを覚えている。よくわからないけど、これは恥ずかしいことらしい……。私が遅れていただけで、きっとその年頃では既にルール化していたんだな、と周囲の反応を見てこっそりと悟った。意識した途端に色んなものが見えてくるのって不思議だ。みんなの肌をチラチラと確認しながら、つまり自分もそうされているのかも、と気づく。そういえば、私は毛が太いんだった。理科室を思い出す。鈍く光る黒い机。拡大されたもの。

 ところがどっこい、これで「ムダ毛の処理を身だしなみに含める」にならないのが面白い。というか自分でもよくわからない。『ムダ毛があからさまに見えているのは恥ずかしい』という意識は生まれたけれど、それよりも『でも抜くのって痛いじゃん』が勝ってしまったのだ。それでいいのだ! と今でこそ思うものの、それでいいのか? と視線が生ぬるくなるのは否めない。私よ、それでいいのか。でもね、毛が丈夫だから本当に痛いのだ。引き抜いている、という生々しい感覚がある。

 抜かないなら剃ればいいのだが、いやそうしてはいるのだが、いかんせん毛が丈夫なので剃ったところで目立つ。ああ、剃ったんだなあ、というのが丸わかりである。腕は比較的毛が柔らかいので問題ないのだが、脚と脇はどうしようもなかった。となるともう「見えなきゃいいんでしょ」の心境になってくる。実際、高校生くらいから素足を晒したことはほとんどないし、ノースリーブも絶対に着なかった。水泳の授業ではできるだけ腕を上げないようにしていた。最近まで長いズボンが苦手だったので、真夏でも黒いストッキングを履いては不思議に思われていた。みんな他人の脚なんてじろじろ見てないよ、とどんなにわかったふりをしても、どうしても無理だった。実は眉毛も同じで、周囲のひとたち、TVの中のひとたちのきれいな眉毛を見ては「それどこで売ってるんですか?」という疑問でいっぱいだ。今でもそう。本当に最近まで「眉毛を隠す」ために前髪を短くできなかった。

 脱毛をしなかったのはどうしてなんだろう。「隠せばいい」と思っていたのかもしれない。「素足を出すために金を払うのが嫌だ」と思っていたのかもしれない。どちらに進んでも、結局は思考も行動も制限されていることに私は全然気づいていなかった。ただ心底、窮屈だなあ、と憂いていた。

 除毛用の剃刀を脛に這わせるたび、ぎこちなく「きれいに」なった肌はなんだかカサカサになっているようだ。体毛を剃ることで力をなくしていくことに気づいてもりもりワカメを食べたりする主人公が出てきた小説があったような。なんだっけ。読んだときはなんだこれ、面白いな、以上にならなかったけど、今はちょっと真顔で読める気もする。なんだっけな。微妙に乾いた肌を見ながら、根を伸ばしているものを切ると土地が弱るんだなあ、となんだか感動する。最近ムダ毛を処理するたびに地球のことを考えるし、神宮外苑の再開発のことに怒るたびに自分の脚の毛と乾いた肌のことを考える。ムダ毛を剃った肌はひどく防御力を欠き、服にこすれる度になんだかチリチリと痛い。剃り残してのびのび生き残った一本を見ると、きみ運がいいな、とにやりとしてしまう。美容院では「今日も元気な髪の毛ですね」と言われる。刈り上げた部分は元気すぎてなかなかブリーチの薬剤も入らない。すみませんねえ、とにやにやして答える。私は美容師のひとが本気で褒めているのを知っている。

 私は今37歳。この間、ムダ毛処理の甘い素足に紺色のショートパンツで図書館に出かけた。ようやくそういうことができるようになった。「してない」でなく「甘い」。なんてかなしい自由だろう。びっくりするほど風が気持ちよかった。足を2か所、虫に刺された。今度は虫よけの薬がいるな。

 

Comment

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です