国土

ジブリ映画の『天空の城ラピュタ』で、追い詰められたシータがムスカに向かっていうセリフに、”土から離れては生きていけない” というのがある。

それを言ったシータの凛とした声色が低学年であったわたしに響いた。多分その内容について当時のわたしは深く思ってはいなかったはず。

だけど最近そのセリフの意味を考えずにはいられない時間をもった。シオニズムに関する書籍を読んで。正確にはまだ読んでるところ。

その書籍には、ユダヤ人の、「自分たちの国土」を持つことに対する悲痛なほどの”渇望”が書かれているのです。それがゆえに、と言っていいのかわからないが、パレスチナ人に、現在に続く厄災をもたらす。

わたしが生まれる前から「日本」という国土があって、幸運にもわたしは「日本人」としてその国土で生きているので、国土を持たない、ということを経験することは恐らく生きている間にはないし、その国土内であれば法的には権利の保障もされている。例え海外で差別にあったとしても、日本という国土へ帰ってくれば、少なくとも同じような差別はない、という感覚を持つ。イヤ、実際はあるけどね、迫害はされない、というレベル。

国土を持たないユダヤ人は、この世界のどの土地に居ても、その民族性を法的に保障されず、差別を受ける。同化を迫られ、それを拒否すれば待ち受けるのは排斥であり、ナチスによる民族大虐殺である。だから彼らは、彼らの「国土」を渇望するに至る。

「国土」が、彼らが”彼らとして”生きていける唯一の道だと。

シータの言う”土”は「国土」でもあるのか、と胸に迫るものがあった。

加えて、現在に続くイスラエルとパレスチナの状況を思うと、「国土」はかくも得難いものであるという事実に胸がえぐられる。

パレスチナ問題に関してあまりにも自分が浅学なので、いろいろ述べることに恐怖を感じるが、パレスチナという国土にイスラエルという国土を建てる、ことをパレスチナ人でもユダヤ人でもない国の人たちが決めた、ということに関して、大国の傲りというのか傲慢というのか、その根っからの差別意識みたいなモノに、身体の内側が冷たくなる。

いわゆる「戦争」は、”境界線”を巡ってのものである、とどこかで読んだことがある。

ひとたび一方的に”境界線”を引けば争いがひき起こされる、ということであるのなら、パレスチナ問題はまさにそうやって引き起こされた、それも部外者によって。加えてその動機が、差別によるものである、と言える。

地上から戦争は無くならない、と言ったのはユダヤ人だったと記憶している。

もし差別をなくすことができるなら、ユダヤ人は「国土」をもつことができるのか。

生まれた土地が「国土」になり得ないのはなぜなのか。法治国家とはなんなのか。

差別と被差別が覆らないシステムとしての、「国土」なのか。